2003年11月23日
映画館で映画を観るときに思うこと・1
マトリックス・レボリューションズを渋谷の映画館で観てきました。方々で言われていることですが、監督のウォシャウスキー兄弟は本当に日本のマンガやアニメをかなり観ています。ドラゴン・ボールや宮崎アニメはもちろん、ガッチャマンの匂いも感じました。クエンティン・タランティーノもキル・ビルで日本映画にオマージュを捧げてますが、ウォシャウスキー兄弟は日本のアニメにオマージュを捧げてます。
ここで思うことは、日本の映画でウォシャウスキー兄弟やタランティーノがやった方法で日本の文化にオマージュを捧げても、恐らくそれはヒットしないだろうということです。技術の差ではなく、演出の差でもなく、予算の差でもなく、日本以外の文化圏で日本の文化に対するオマージュを捧げるからヒットするのだと思います。どうして「日本以外の文化圏で日本の文化に対するオマージュを捧げるからヒットする」のかというと、日本人に日本の文化を卑屈に感じる傾向があるということ、そしてもう一つ、異文化による自国の文化の再構築がすごく新しいものに感じられるという理由があるからです。
卑屈に感じてしまうのは国民性かもしれないし、あるいは日本の文化が戦後アメリカ文化にレイプされたからかもしれません。このあたりはかなり根が深いので、改めて書きます。異文化による自国の文化の再構築については、当たり前のことですが自国の文化の新たな発見とか、今まで見過ごしていたものが実は世界レベルでは評価されるものだったという、江戸時代の文化が開国後、欧米諸国から評価されたことに似ています。欧米諸国から評価されないと自信を持てない日本人の体質もかなり問題ですが、これも根が深いので、改めて書くことにします。
日本のオタクの多くもかつて鎖国状態であったと言えます。一部の関係者や日本に精通している外国人はその輪の中にいましたが、現在のような広がりはありませんでした。ところがインターネットによって「OTAKU」が世界中へあっという間に広がり、認められ価値あるものとしてそのポジションを成立しました。このようなポストモダン以降の文化を批評家の東浩紀氏が分析・批評しているので、興味があったら読んでみてください。
で、マトリックスとキル・ビルですが、この二つの映画は平たく言うとただのオタクが撮った映画です。しかもハード・オタクが撮った映画です。監督をよーく見ればオタクの臭いがぷんぷんします。ウォシャウスキー兄弟はアニメオタクで、タランティーノは映画オタクです。オタクによる大衆のための映画がこの二つの映画です。タランティーノがハード・オタクなのはレザボア・ドッグズの頃から知られていることですが、この二組の監督は、オタクの共通言語を大衆向けに翻訳するのが非常に巧みだと僕は思います。キル・ビルはまだ見ていないので何とも言えませんが、マトリックスは、大衆向けにつくられたポストモダン以降の物語です。ウォシャウスキー兄弟の次回作に期待。
と、ここまでかなり長く書いてきてしまいましたが、本題はここからです。が、さらに長くなるので、エントリーをもう一つつくります。上のエントリーが続きです。




